享保16年~元文4年
第六代尾張藩主徳川継友と言えば、八代将軍の座をめぐり第五代紀州藩主吉宗とマッチレースをやり残念ながら、いや無念にも敗れた人物である。当時御三家筆頭の尾張藩が敗れたことは、世間に嘲笑され「尾張にはのふなし猿が集まりて 見ざる聞かざる天下とらざる」「此度は紀伊国みかんもぎ取りて しなびて帰る尾張大根」などと狂歌に歌われたほどであった。現代人の私が聞いても腹ただしく感じられるのに、当時の尾張藩士やまして江戸藩邸にいた継友の弟宗春の胸中は屈辱的なものであったと思われる。さらに享保15年(1730年)11月突然、継友が病死 (暗殺とのうわさもある)。そして尾張藩七代藩主の座は、15年前に辛酸をなめた弟宗春が継ぐことになる。
二度目の「諸士並びに帯刀者観劇禁止令」が出されたのも享保15年11月、藩主継友が病死した時に重なる。享保8年に続き二度目の発令は、藩主交代の間隙に圧力がかけられたことになる。名古屋城下で守られなかったこの禁止令、尾張の武士にとっては吉宗に対するささやかな反発であったのであろうか。
第七代藩主 徳川宗春誕生
橘座いや芸所名古屋の基礎を作り上げたのはこの宗春であろう。宗春の政策は『温知政要』という本にまとめられ、藩士に配布され将軍吉宗にも献上された。その中の第九条に「倹約はそれぞれが努力すべきことである。もちろん家を治めるためにも、また冗費が多くて国の経営にさしつかえるようでは困る。さりながら倹約するばかりでは人情も慈悲もなくなるので、倹約もとんだ無益になるものだ」とあり、真っ向から吉宗の政策に反対するものであった。これを読んだ吉宗が憤慨したことはまちがいない。享保16年4月名古屋にお国入りした宗春は、領内に芝居小屋、遊廓を許した。もちろん前述の「諸士並びに帯刀者観劇禁止令」などとるにたらず、橘座周辺には、西小路遊廓・富士見遊廓が並び空前の賑わいを呈し、橘座も上方役者が毎月の興行を行い、連日昼夜をとわず大盛況を博した。全国的に質素倹約の世に、ここ名古屋だけが景気よく、他国の諸商人が競うように集まり支店を構え、商売繁盛、大繁盛となった。『元文世話雑録』に「名古屋の繁盛、神武以来ない図、新芝居を立て、遊女のにぎやかさ、どうもどうも」とあるほど絢爛、華やかな様子で、当時、江戸・大坂・京都に並ぶ城下と変貌した。
しかし、そのころ江戸では将軍吉宗が一日二食で玄米に一汁三菜、肌着は木綿だけと倹約生活を続けていたのだから、尾張藩の内情が許されるはずがない。享保17年(1732年)とうとう吉宗から三カ条の詰問状が参勤交代で江戸藩邸にいた宗春に突きつけられた。ところが宗春は、将軍家と尾張藩は兄弟関係であり自分の倹約はうわべに現れないなどと弁明する。さらに吉宗の逆鱗に触れたことは言うまでもない。さすがの宗春も身の危険を感じたのか、享保20年、藩士の遊興場所への出入りを禁止、翌年には遊廓・芝居小屋も制限する。翌、元文元年(1736年)4月西小路遊廓から出火し橘町界隈は一夜にして一面の焦土となり、橘座の栄華も邯鄲の夢となる。さて宗春は元文四年、とうとう吉宗から隠居謹慎を命じられ、再び表舞台に姿を現すことはなかった。

